シャーウッドの森

おもに映画。

ディズニーの2大監督を唸らせた映画音楽家マイケル・ジアッキーノの『ズートピア』における作曲について

     映画『ズートピア』最大のネタバレと呼ばれる*1その劇中曲について推察していく。

    いい加減何かしらの形にしないと王様の耳はロバの耳よろしく地面の穴に顔を突っ込んでこのネタバレを叫んでしまいそうになってきたので、奇行に走る前にここに書いておくことにします。とはいえ、物理的でないにしろここが実質私の掘った穴なので、奇行に走っていることには変わりありません。

 
 
 
     はじめに言っておくと、これは随所に伏線が張り巡らされた本作の中でもきわめて巧妙かつ本来ならわざわざ文字に起こして語られるべきでないトリックなので、以降は本作鑑賞後に読まれることを強くお勧めします。気をつけろ俺はキツネだ、血も涙もなくネタバレするぞ。
 
    なお、ここでいう「劇中曲」には米音楽プロダクションチーム・スターゲイト作曲『Try Everything』は含まないのであしからず。すまんシャキーラ、そしてDream Ami。
     ここから明らかにしていくのは、映画音楽家マイケル・ジアッキーノが手掛けた、劇中曲による『叙述トリック』です。
 
 
 

概要とあらすじ

   この辺はディズニーのうんちくを前書きとして書いておくだけなので読み飛ばし推奨です。長いので。
    映画『ズートピア』は、今年3月、日本では4月に封を切られたウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ55作目の長編アニメーションで、公開初日から「あのアナ雪を上回った」と各メディアがこぞって報道した。
もっとも、公開中全期間の興行では2億ドル差でアナ雪を上回らなかったわけですが。
 
    ディズニー映画はいつでも、どんな時も人気を博し、絶大な支持を得ている────と、一般的には思われがちな気がするが、これはちょっと違う。その長い歴史の中で、当然ながら彼らは停滞期も経験している。
    1923年に立ち上がったとされるウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ(ウォルト・ディズニー・カンパニー)は、先述したとおりこれまで55にもおよぶ自社名義の長編アニメを公開してきたが、その間には意図されたのかと勘ぐりたくなるほど規則的に不作続きの時期を迎えている。ウォルト死後の20年、そしてその後奇跡の復活を遂げるもまた10年と、そのスパンもけっこう長期的だ。それらの時期は『ディズニー暗黒期』とも揶揄され、暗黒期の作品を全く観ていないディズニーファンも珍しくない。『ホーム・オン・ザ・レンジ』と聞いてすぐピンと来る人の方がたぶん珍しい。
 
 
    脱線した。
    とにかく、今作ズートピアはそんな第2暗黒期を乗り越え、現在第3黄金期まっただなかにあるディズニーが手掛けた、まさに『現代の名作』だ。
 
 
  
    あらすじを振り返る。
 
    舞台は哺乳類が生態系を営む架空都市。主人公であるウサギのジュディは長年の夢であった警察官の職を手にし、大都市『ズートピア』へ上京する。草食獣と肉食獣が手に手を取りあい平等な生態系を築いているという夢のメトロポリスでこれから夢の警官として暮らしていく彼女には、夢のように充実した毎日が約束されていた────はずだった。
    末端の仕事をあてがわれ、それでも自分を奮いたたせ任務を遂行するジュディだったが、街で出会った一匹の動物が彼女に更なる追い討ちをかける。キツネの詐欺師ニックだ。
「実際のところ草食動物と肉食動物は大して仲良くない」
「夢の警官になるも仕事は期待外れ」
「この街で誰も君なんか相手にはしない」
ニックは夢見るジュディに次々と現実を諭す。
    草食獣と肉食獣、分かり合えるはずもない2人だったが、しかしこの出会いをきっかけにジュディは大きな事件へ介入していくことになる────
 
 
 
 
    人種差別や偏見、宗教等のイデオロギー、政治、格差社会────ディズニーがこれほど前衛的な主題をひとつどころにぶち込んで現代社会を切った映画は未だかつて例がないのではないか。
 
    と、思わせられるのは、まあ当たり前といえば当たり前なのだ。ディズニーはいつの時代も「未だかつて例がないディズニー」を生み出すことに余念がない。だからこれまでにも、その時その時の時代背景や社会問題、イデオロギーをリアルタイムで映画に反映させてきた。「ディズニー映画を見ればその時代が分かる」と断言する人さえ世の中にはいる。
 
    余談だが、プリンスに助けられるか弱い女主人公がディズニーから姿を消し、男性キャラクターを引っ張るたくましい女主人公が登場し始めたのもこのためで、女性化するポリコレ社会をよく反映させていると思う。草分けは『 魔法にかけられて』あたりがそう。あれは凄かった。衝撃だった。ウォルト・ディズニー・ピクチャーズの管轄だけど。
 
    またしても脱線してしまった。なかなか本題に辿り着けない。
    何にせよ本作『ズートピア』はディズニー史マニアにとってはかなり美味しい内容だったわけだけれども、ディズニーのファンでなくとも広く楽しめる作品だったのではないだろうか。まあ、そこらへんは置いておいて、そろそろ本題に入る。
 
 
 

ミュージカル映画ではない、だけど『ジュディの曲』が用意されている

    さて、本作の中でもっとも印象に残ったシークエンスのひとつとして『ゴンドラの場面』を挙げる声は少なくない。詐欺師ニックを軽蔑する草食獣のジュディと、正義漢を振りかざしては自身を正当化して生きてきたジュディを嘲笑する肉食獣のニック。この相反する2人が対話し、互いを認め合い、そして敬意を示す、本作においてもっとも重要なシークエンスのひとつだ。
 
 
 
    ゴンドラ乗車前、ニックは警官バッジの返却を迫られたジュディを庇って署長に噛み付く(※物理的ではなく)。バッジを剥奪されジュディが警察官でなくなってしまいさえすれば万を辞してウサギのお嬢さんの「捜査ごっこ」から解放されるにもかかわらず、彼は悩んだすえに我が身の自由よりもジュディを尊重したのだった。
    これは、ニックが引き続き、否、ここからは自分の意思でもって捜査に協力することを決めた「決意表明」だったのだ。
 
「小さい頃は俺も君みたいにえらく頑張ってた、本当さ」
    ゴンドラに乗ると、ニックはこの台詞に続いて幼少期の『トラウマ』をジュディに打ち明ける。ジュディ、そして観客がここで初めて詐欺師ニックの生い立ちを知ることになる。
    そもそもトラウマの告白なんていうものは、勇気と、そして相手への絶対的信頼がなければできるものではない。このときニックは、意図せずとも最大の信頼をジュディに示したのだった。

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    なんと言っても台詞と映像美がものをいうこの場面で、殆どの観客は音楽にまで意識が向かない。しかしここで使われている曲に敢えて耳を傾けてみると、ショタニックの心のように繊細ながらも、ズートピアの夜明けの情景に親和性のある甘美な旋律がそこに漂う。
 
 
 
 
    それだけだろうか。
 
    次第に打ち解けはじめた2人の心境や悲痛なトラウマを告白するニックの心中を酌み、かつ今後の展開を示唆するかのような、静謐さと明るさを兼ね備えた旋律で描く─────と、それだけでも十分称賛に値する偉業なのだが、それを言うならRADWIMPSにだって三葉を思って過去にタイムスリップする瀧の心境を歌詞にすることはできたのだ。
    しかしこちとらディズニー映画の劇中曲だった、わけがちがう。(前前前世は大変良い曲です)
 
    また脱線しそうになったがここは抑える。安全運転で行こうどんなことがあったとしても。
    この曲の何が凄いのか。今一度、はじめから、曲を聴いてみる。
 
 
 
    この曲を聴かされるのは、これが初めてだっただろうか。
 
いや違う。確かに聴いたことがある。
 
    これは、ジュディがニックに言い負かされてアパートに帰ってきたあの夜にラジオから流れていたピアノ曲と同一のものだ。
 
 
 
ズートピアに来る奴は何にでもなれると思ってる。でも無理なんだよ、自分は変えられない」
    期待に胸を膨らませて上京するも現実を諭されたジュディは、この曲を聴きながら目前に立ちはだかる現実とニックの言葉とを並べ、意気消沈する。
    彼女にとっても観客にとっても、この曲は失意の象徴だった。さらにはアパートの隣人の「おいウサギ!暗い音楽はやめてくれ」という台詞によってちょっとわざとらしいくらいに「暗い音楽」と印象づけられる。
 
    ところがどうだろう。2人の関係性に転機が訪れたこのゴンドラの場面で、その曲は打って変わって希望を予兆する曲として再登場したのである。
 
 
 
    ここまで書いたところで「たった2回の繰り返しで何をそんなに興奮するのか」との声が聞こえてきそうなので言っておくと、たった2回ではない。
それ以上の繰り返しをもってこの曲は本作の「伏線」として立派に成立している。
 
    ではこの他にどこでこの曲が登場していたというのか。物語を遡る。ずばりジュディの幼少期、ジュディ自身の『トラウマ』のシークエンスだ。
 
 
 
    本作はジュディの幼少期から始まる、ディズニーお得意のワンス・アポン・ア・タイム形式だ。
    肉食獣と草食獣が捕食・被捕食の関係にあったとされる時代の芝居を、ショタジュディやそのクラスメイトが演じている。その芝居を観劇して調子に乗ったのがキツネのギデオングレイだった。
    肉食獣がかつて草食獣に対して優位にあった史実を知るやいなや、彼は草食獣たちに対して悪事をはたらき始める。それを目撃し、持ち前の正義漢で彼に立ち向かったジュディだったが、圧倒的な力の差で地面に張り倒されてしまう。
「今日のことをよく覚えておくんだな。どんなに足掻いてもお前はニンジンを作ることしかできない間抜けなウサギなんだ」
    この日の出来事と彼の言葉はたしかにジュディの脳裏に深く爪痕をのこし、彼女の中に肉食獣への恐怖を植え付けた。
 
    満足気なギデオンがフェードアウトし、地面に倒れるジュディがフォーカスされる。件の曲が使われるのはここからだ。
    力に抗えず、警察官の夢を否定され、肉食獣のギデオンに完膚なきまでに打ちのめされたジュディの心境をあらわすかのようにさりげなく、しかし印象的にピアノの音が充てがわれる。
    単なる心境の描写にとどまらず、先述しているニック自身の『トラウマ』のシークエンスへの伏線的な役割をも担っているわけだからまさに匠の技だ。
 
 
    実はこの曲はこのほかに劇中6か所(たしか)でそれぞれ重要な意味をもって再登場しているのだが、次がつかえているので割愛する。タイムイズマネー。
 
   「次」とは。
    実は本作で反復されているのは『ジュディの曲』ばかりに留まらない。本作には、『ジュディの曲』に対してニックの曲までもが懇切丁寧に用意されているのである。
    もうこれほどまでディティールに拘るところを見ると、いかにこの作曲家先生のナルシズムとオタクっぷりが病的であるかが窺える。
 
 
 

ニックの曲

 


Zootopia Scene : Pawpsicle

(0:53〜)

 

 

    どっちかといえばこっちの曲の方が派手でわかり易い。
 
    初めてニックの曲』が登場するのは、ニックがズートピア中を駆け回って詐欺行為をはたらくシークエンスだ。ズートピアのワイドな世界観と詐欺師としてのニックの立ち居振る舞いを表現すべく、ここにはエキセントリックなワールドミュージックが採用されている。小気味の良い曲に乗ってニックが飄々とこなすさまは、ちょっとクールだ。
 
    続いてこの曲が登場するのは、その詐欺行為をジュディが問い詰めるシークエンス。詐欺現場を見て「逮捕してやる!」と憤るジュディをニックは言葉巧みにかわし、世間知らずの彼女に大都会ズートピアの現実をありありと説く。
    そしてそのあと2人が再開する場面でも、やはりこの曲がもう一度繰り返される。
 
    さらにその次に登場するのは、2人が行動を共にしはじめてしばらく経ったツンドラタウンのリムジンの中だ。捜査の手掛かりを追ってここへ辿りついた2人は、更なる物的証拠を求めて車内を物色する。
    やはりここにも親和性を意識した演出が窺える。張り詰めた空気の中でも自身のユーモアを発揮してしまうニックのお茶目さを、重厚感のある低音にアレンジされ本来の軽やかさが控えられた『ニックの曲』が見事に表現している。
 
 
 
    と、ここまででこの曲はあくまでニックのパーソナリティを象徴するものとして存在しているわけだが、ところが次に登場する場面では違う。このシークエンスでもって、この曲のもつ意味が決定的かつ劇的に変貌する。
  そう、『ゴンドラの場面』だ。
 
 
    ジュディにトラウマを告白したニックは気恥ずかしくなり、「見ろよ、あんなに車が走ってる。『カメラに渋滞の様子が映ってます〜、それでは道路交通センターどうぞ〜』」などとまたしてもおどけてみせるも、自らの言葉「交通カメラ」に次なる証拠が隠されていることに気づく。
「交通カメラだ!街中の様子が映ってる!ジャガーがどこに連れていかれたか……」
「交通カメラに映ってる!」
「ビンゴ!」
 
    この瞬間、もうジュディを貶めてやろうという気は彼に一片も残ってはいなかった。純粋に事件の解決に一役買おうと思考を巡らせる彼の脳内を『ニックの曲』が軽快に物語る。
 
 
 
 
    ここで2つの曲を振り返る。
『ジュディの曲』は彼女自身、『ニックの曲』は彼自身の象徴として劇中に存在していた。ところが、相対する「個」であった曲同士はその持ち主たちが互いに心を開いたゴンドラの場面で巧妙に「交換」され、互いの曲に相成った。
 
 
    ところで、本作には至るところに伏線(反復)が使われていると先述した。特筆するまでもないその代表例が、形容詞「ずるい(sly)」、「間抜けな(dumb)」、そして「賢い(clever)」だ。
    はじめニックは「ずるいキツネ」、ジュディは「間抜けなウサギ」だった。それは作中のニックの台詞によってしつこいくらいに観客に印象付けられる。ところが、中盤では互いを「clever bunny」「clever fox」と呼びあい、そして物語の終わりでは本来の形容詞が鮮やかに交換される。そう、ご存知「ずるいウサギ」と「間抜けなキツネ」になる。
 
    この「交換」を、ひいてはこの作品で織り成されたストーリーのすべてを、ジアッキーノは劇中曲で忠実になぞったのである。
 
 
 
    果たしてこれは「作曲」と呼ぶべき代物なんでしょうか。作曲を超えた、もはやストーリーテリングであると形容するほかない。バンプの藤くんも目からウロコにちがいない。
 
 
 
    この2曲について、そしてこの2曲以外にも同様に反復されていたいくつかの曲についても触れたいところだが、冒頭で先述したようにこれはそもそも語られるべきでないトリックだと思っているで自粛します。本当のネタバレは結末の暴露ではなく気付きと想像の余地を奪うことだって昔ばあちゃんが言ってた。 
 
 
 

ディズニーの2大監督に手放しで褒められるジアッキーノ先生

    ちょっとしり切れとんぼ感が否めないので、最後に本作の両監督によるこの劇中曲へのコメントを引用して終わりにします。劇中曲の域を超えたこのジアッキーノの偉業について、監督らはなんと言っているのか。
 
 
    ズートピアのように膨大な世界を描くには、エキゾチックで力強いだけでなく、エモーショナルな関係性を音楽で体現し得る人物が必要だった。私たちは映像でストーリーを示し、そしてジアッキーノはまさに音楽をもってそれをやってのけた。ズートピアは深層心理を終始物語っているスケールの大きな映画だ。あの非凡な世界に音楽をもたらす人選として、彼は完璧だった。
    ズートピアの楽曲は完全に彼個人の直感から作曲されたにもかかわらず、その曲のもつテーマやストーリーテリングは完全に普遍的なものになっている。聴いた瞬間にこの音楽のとりこになってしまう筈だ。[バイロン・ハワード]

 

    ジアッキーノの音楽はズートピアのインターナショナルなスピリットを的確に捉えている。彼と一緒に創り上げたこのありえない新世界を観客に体感してもらうのが楽しみでならない。
    彼との映画作りはプロセスのようでプロセスでなく、まるで馴染みの友人と雑談しているような心持ちだった。
    制作過程で私たちはズートピアについて語り合った。テーマやトーン、登場人物、エモーショナルな場面などをはじめ、この映画を作るにあたって私たちが影響を受けたもの、そしてこの映画に望むことに至るまで話した。するとジアッキーノは、なんとそこで話した内容を見事音楽に反映してきてくれたのだ。これぞまさに真の「創作のコラボレーション」だ。[リッチ・ムーア]
 
 
    だ、大絶賛してますやんけ。
なんかもう、パーフェクトだのインクレディブルだのアメージングだの、ところどころとかく抽象的かつ直接的な言葉(英語とは得てしてそんなものかもしれない)を濫用していて、唾撒き散らしながら対談している様子がありありと目に浮かぶ。
 
 
    とにもかくにも、2人のディズニー監督をこれほどまで褒めちぎらせた音楽家ジアッキーノの技量はちょっと計り知れませんね。
    アカデミー賞ゴールデングローブ賞グラミー賞とまあ錚々たる映画賞を総ナメにした経歴をもつこの音楽家先生だけど、今回ばかりはそれ以上の賞賛が贈られるのではなかろうか。
   
 
 2/2追記- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 
モアナやラ・ラ・ランドは憎むまい。ええ憎むまい。

*1:コレが一体どこの界隈で「最大のネタバレ」などと呼称されているのかと言えば、恐らく私個人の中だけです。